クラシカルオステオパシーとは

オステオパシーは約130年前に米国の医師A.T.スティルによって提唱された医学体系です。現在全米に23のオステオパシー医科大学があり、米国政府公認の医学として救急医療の分野をはじめ様々な疾患に対して活用されています。英国のJ.M.リトルジョンは生理学者でもありスティルと共にオステオパシーの創世期を過ごしました。そしてその哲学と技術を英国に持ち帰り、英国において発展させたのです。
英国のクラシカルオステオパシーでは身体を1つのユニットとして捉え、身体調整の技法を通して全身の調整を行います。クラシカルオステオパシーの理論は人体生理学に基づくもので、スティルが考案した当初のオステオパシーの哲学・技法を忠実に守り現代に伝えています。
オステオパシーでは身体の構造と機能の関連に重点をおいています。筋・骨格系の異常は直接内臓や組織の機能を障害します。そのため、筋骨格系の動きを 正常化させることで有機体である人体の機能回復が図れます。一方、疾患は病理学的な変化が生じる前の機能障害の段階で多く発生しています。
クラシカルオステオパシーでは生理学的な面から疾患を捉え、筋・骨格系だけでなく神経系やリンパ・血管系にアプローチをします。そのためクラシカルオス テオパシーでは筋・骨格系の障害だけでなく、慢性疾患や内科系の疾患などの広範囲な健康問題に対処することができるのです。
クラシカルオステオパシーの技法は他の医学にはない人体生理学に基づいた、奥の深い、また医療の原点ともいうべき治療法であり、単に局所の障害を治療するだけにとどまらず、人体という有機体を治療する全体治療です。
John Martin Littlejohn ジョン・マーチン・リトルジョン

A.T.スティルの治療を受けカークスビルにある、アメリカン・スクール・オステオパシーに学生として入学し、そこで彼は学生であると同時に生理学部長を務め、生理学の講義を行った。卒業後、1900年にシカゴ・オステオパシー大学の前身となる、リトルジョン・オステオパシー大学及び病院設立し、ここで学生に講義をすると共に、1913年まで診療を行った。
その後、英国ロンドンに戻り、1917年にブリティッシュ・スクール・オブ・オステオパシーを設立。二つの大戦を挟んで、1947年12月8日に亡くなるまで、英国におけるオステオパシーの教育と診療の中心的人物であった。
John Wernham ジョン・ワーナム

1985年にJ.ワーナムはJ.M.リトルジョンからの教育に感謝の意を込めて、メイドストーン・オステオパシー大学を設立した。大学は1996年にジョン・ワーナム・クラシカルオステオパシー大学へ、創設者の敬意を込めて名前を変更した。この大学はクリニックとして、またクラシカルオステオパシーの卒後教育、そして文献を通じてJ.ワーナムの遺産を引き継いでいる。
J.ワーナムは診療を行うかたわら教壇に立ち、彼が逝去するまで論文や文献を書き続けた。彼は100歳の時にそれを行っていた。



A.T.スティルからJ.M.リトルジョン、そしてJ.ワーナムへと続くオステオパシーの歴史
1874年 | A.T.スティルによってオステオパシーが発表される。 |
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1892年 | ミズリー州カークスビルにアメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(ASO)設立。 J.M.リトルジョンが英国から米国に向け出発。 |
1896年 | アメリカ、バーモント州においてオステオパシー医療業務が初めて法的に認可される。 |
1897年 | J.M.リトルジョンがASOの生理学、心理学、精神医学教授、学部長として就任(-1900年)。 |
1900年 | J.M.リトルジョン、ASOにてDOに登録。シカゴにオステオパシー大学(現シカゴ・オステオパシ ー医科大学)、及び病院を設立。 |
1913年 | J.M.リトルジョン、英国に帰国。 |
1917年 | ブリティッシュ・スクール・オブ・オステオパシー(BSO)設立。 A.T.スティル死去(12月12日) |
1928年 | J.ワーナム、オステオパシーを学ぶためJ.M.リトルジョンから招かれる。 |
1947年 | J.M.リトルジョン死去(12月8日)。 |
1985年 | J.ワーナム、メイドストーン・オステオパシー大学設立 |
1996年 | メイドストーン・オステオパシー大学の名称をJ.ワーナム・クラシカル・オステオパシー大学 (JWCCO)に名称変更。 |
2007年 | J.ワーナム死去(2月9日)。 |